無無無|解説
無無無|歌愛ユキ
本文
小さい頃、学校が夏休みに入った。
熱くて陽炎が揺れている家の前を駆け回っていたとき、ふとカラスの声が聞こえた。
何となく、そのあとを追った。
するとカラスが集まることで有名な神社にたどり着いた。
近くの無人駅も、ここのカラスたちの襲撃が原因だなんて噂があるくらい、本当に想像以上の数の集団で暮らしている。
大人たちに行くなと言われていて入ったことはなかったので、少し気分が上がって散策を始めた。
古い石の鳥居はかけていて、カラスが絶え間なく鳴いていて、破れた扉が覗く小さな祠があった。
その前には泥で作られたお団子がいくつか並んでいて、それは相当古いのか乾燥して割れていた。お供え物のつもりだろうか? 子どもながら疑問に思った。
そのとき大きくカラスが一声鳴いた。
驚いて振り向くと、祠の前に黒い浴衣を着た少年が立っていた。
さっきまで僕以外の人はいなかったのに。
入口は僕の目の前で。どこから入ったのだろう。
「お前も、カラス好きゃの?」
少年はガラガラと聞いたことのないほどひび割れた声で話しかけてきた。
でも僕は頷くことしかできなかった。
『ごめんね、僕、声が出ないんだ』
手話で話してみたが知らないようで首を傾げているので、身振り手振りでなんとか声が出ないことを伝えようとしていると、少年は笑った。
「話なが? わこうたからそんな必死にならんで……喋れるようになりてえなら手伝うが、どうじゃ?」
突然の提案に戸惑ったが、子どもだった僕は無邪気に『本当に喋れるのかな』と思った。
すると少年は「わ!」と大声を出した。
僕は肩を飛び跳ねさせながら確かに言ったのだ。
「うわっ!」
今度こそ本当に驚いて固まっていると、少年はカラカラと笑った。
「出せるようなったやろ、何け頂戴や」
半信半疑だったものの、何故か実際声が出せるようになって僕は興奮していた。
「うん」
そう答えてしまった。
すると犬が吠える声や水に沈むような音が、立て続けに僕の耳元で止まらなくなった。
怖くなった僕は堪らず少年に駆け寄って、やめるようにせがむ。
しかし彼は「怖えのはさっぴだげさ。そんなこんより、遊ぼうや。はじき? 手玉? 最近の子の遊び方分からんけ、教えてえな!」と僕の手を握った。
彼の手は生ぬるかった。
僕が震えていると「寒いん? ぬくかしてあげっか」などと尚話しかけてくる。
拒みたいが、何分初めて話せるようになった為、上手く発音できない。
彼は「ほうか、まだ無理きゃ。よきかな、ずっと待っててやるけ。どうせずうっと一緒ださ」と僕を神社の外に引っ張った。
誰もいなかった。
いつもいる筈の近所のボケたじいちゃんは座っていないし、よく歩いている三毛猫もいない。そろそろ豆腐売りのラッパが聞こえてくる時間なのに、自転車の鈴の音さえ無い。
妙に静かで、神社にいるカラスたちだけが騒いでいた。
「―何、」
僕が絞り出した言葉に喜んで、彼は「人、貰うただけんだ」と笑っていないがらんどうの瞳で僕を見つめた。
「ぼく、は」
「お前は儂とずうっと一緒ださ。しばあ、こきゃ出てなかったい、案内しいな」
その言葉で不思議と恐怖は薄くなり、とりあえず僕の家へ連れて行くことにした。
「ここさ、お前んちかえ?」
古い日本家屋。僕のじいちゃんが立てた家だった。
「うん」
「ほうか、ほうか。変おっちゅうねえ」
彼は興味深そうに中へ走っていった。
僕は靴を脱いでいるとき、廊下にある黒電話がつー、つー、と繋がってもいないのに切れた音がしているのを聞いた。
でも別に、変に思わなかった。
散策し終わった彼が戻ってきて「あれ何ぞ」と指さした。
学校でもらった皆勤賞の賞状だった。貰ったときは誇らしかったのに、なんだか今はどうでもいい紙切れに見えた。
「しようじよう、だよ」
発音は難しいが、だいぶん話せるようになってきた気がする。
「しようじよう? 人は変がもん好きゃの」
僕の頭を撫で「違えとこさ行こ」と玄関へ向かった。
陽炎が揺れている。でも彼は上から貼り付けた絵のように動かない。
「何や、じんじん見いんや」
「君、何」
「今言うんけ? そうな、儂はxxxいう」
「……? もういっかい」
「xxx」
どうしてもそこだけが靄がかったように聞き取れない。さっきまで聞こえなかった蝉の声がジリジリとうるさい。聞いたことない鳴き声も混ざっている。違う種類でも混ざっているのだろうか。
「聞こえんば? ほうか、ま、無理せんよな。儂んこと、神様ちゅう言う人もおるけ」
「神様」
「うぬ、わからんでもそういう名前や思えばええじゃろ」
「うん」
それからは神様とたくさん遊んだ。
周りの景色が変わっても気にならないほど。
気がつけば家という家は全て朽ちてしまった。
唯一蔦まみれでも形を残していた無人駅も、さっき崩れた。
「楽しか、楽しか。xxxも楽しか?」
少し前から彼はぼくのことをxxxと呼ぶようになった。
聞き取れないけれど多分『彼とお揃いの名前』はなんだか嬉しかった。
「うぬ、ぼくも楽しか」
そう答えると、彼は嬉しそうに笑った。
あれ、ぼくはいつの間に少年だった彼が大人の男性に見えてたんだ?
わからんけれど、今が楽しかなんけ、よきかな。